信ずる者は救われた

今回はホームシアター周りについて書いてみたい。

1.ホームシアター雑誌の憂鬱
 最近は本屋に行かない。行くのが面倒な上に、入り口に愚民層向け書籍が平積みにされているので、入店するのも嫌なのである。以前はたまに書店に立ち寄って、雑誌を立ち読みしたりしていたが、ホームシアター系雑誌を見るとどれも住宅展示場のカタログかと見まごうばかりの内容で辟易した。「非現実的な」ゴージャスなお宅訪問記事が多いのである。
 販売店ホームシアターアドバイザーとして金持ち相手に高額商品を売りつける、ぼったくり商売に特化したような所もある。高ければ性能も等しく比例する、とは言い難い部分もある。高額の羽毛布団を売りつける催眠商売でもあるまいに。
 ホームシアターにしろ、オーディオにしろ、なんだか富裕層向けと庶民向けと二分化してしまったように見受けられる。本当に必要なのは、なるべく普及価格帯で、廉価に実現するホームシアター機材情報である。
 総花的に機材を紹介するので、どれを買えば良いのか判然としない。自分が購入するのは1つなわけで、ベストチョイスしなければならない。今時は価格.comやブログを隅々まで呼んだほうが有用である。おおむね映像系機材はソニーを選んでおくのが無難である。

2.プロジェクターは成熟した
長岡鉄男先生の
長岡鉄男のスーパーAV―ホームシアターをつくる」
という本があるのだが、この時代1988年頃は三管型プロジェクターが主流だった。だが、三管型プロジェクターというのが恐ろしく重たくて大きな代物で、天吊りは素人では危険に思われた。据え置きすると邪魔でしょうがない。6畳間でSonyの三管型プロジェクターを置いている人がいたが、場所を専有してしまってしょうがない。結局、私は90年代に入って液晶プロジェクターの登場を待って導入した。
 シャープのプロジェクターを3台乗り継いて、CANONのデータプロジェクターを一時期使用した。
液晶PJは当初、解像度も輝度も低く、とてもテレビや映画館の映像に対抗しうるものではなかった。

一昨年、Sony VPL-HW15ES → VPL-HW50ESと乗り換えた。
Sonyの場合型番に進化の度合いが反映されており、15から50になっただけの成熟度の跳躍があった。
起動時間が短縮され、輝度が上がり、動画性能も向上した。
アップスケール機能や、映像のデジタル処理系も目を見張って良くなった。

3.音を聞くのか、音楽を聞くのか
 長岡氏は80インチを超えると、映像の支配力が高まり、主客転倒するという趣旨のことを述べていた。私の見立てでは人物が実寸を超えると、虚像と実物の境目が埋まり、本物っぽくなるような錯覚が起きると考えている。
 テレビも今時は大きくなって、50インチや60インチのものもある。84インチなんてのもあるようだ。だが、プロジェクターなら150インチが狙える。これに慣れてしまうと、テレビはやはりテレビであり、限られた縁の中で映像が踊っているだけであり、映像に没頭するという事は起きない。
 映像に比して、音声も大きくする必要があるとも言われている。かつて、オーディオ全盛の時代、「音を聞くのか、音楽を聞くのか」という論争があった。
 昔は映像媒体も少なく、音楽を聞くためにオーディオを揃える時代である。長岡氏は「音を聞くためのオーディオ」を論じていた。生録した「富士総合火力演習」や汽車の走行音を、バックロードホーンスピーカー再生して悦にいるのが長岡派であった。
 確かに時代の風潮を考えると異端である。ところが、世は映像再生が主力となった。音楽よりも音を聞く時間の方が圧倒的に増えた。
 生の爆発音というのは聞く機会があまりないが、[雷鳴]は否が応でも耳にする。バックロードホーンスピーカー(BH)は「音を聞くには」最適である。雷鳴音は実にリアルになる。
 BHは音圧能率が高く、軽量振動板ユニットを用いるので一般的にダイナミックレンジが広い。この点が、ホームシアター用途で効いてくる。あまり音量を上げなくても、豊かな情報量が聞き取れる。ひょっとしたら、この点が最も有意な受益点なのかもしれない。

 また爆発音もエフェクト具合の差異を聞き分ける事ができる。
生録音ソフトである「富士総合火力演習」には「硫黄島からの手紙」が最も近い。乾いた爆発音である。

 「ヒトラー 最期の12日間」や「プライベート・ライアン」は爆発音に重量感を出すためにエフェクトをかけている。爆発と同時に撮影カメラを振動させて、迫力を出している。

 「ターミネーター4」は重低域音を持続的に最大レベルで鳴るように強烈にコンプレッションはかけている。はっきりいってやり過ぎである。

とまぁ、ソフトによって効果音の差があるのが良く分かる。
一般的なバスレフ型スピーカーでは、低域再生をポート共振に頼っているので、差が出ずらいのである。音楽を聞く分には違和感がそれほどないが、ホームシアター用途で圧倒的な差がでる。

 最近知ったのだが、人間は40Hzまでしか聞き取れないそうである。体の体積と比例しているようで、大型動物はもっと低い周波数まで聞こえているようである。そうすると超低域再生を狙ったスピーカーは不要という事になる。
 ネッシーという共鳴管タイプは16Hz辺りにピークが来る。それほど超低域は部屋を揺さぶるだけで、聴覚としては無意味である。遊園地のアトラクションよろしく、家を鳴動させたい人は別だが、基本的に40Hz辺りまで一定レベルで出れば十分なのである。
 J-Pop CDは 40Hzに向けてブーストして録音してあるものが増えてきている。一般的なバスレフ型スピーカーはポート共振周波数を60-100Hzぐらいに設定しているので、さして問題ないのだろうが、大型BHだと40Hzが高いレベルで出力されるので、今時のJ-Popを再生すると、バスドラの音が不自然なぐらい大音量で出てしまう。
 映像はテレビの大画面化を受けて、アニメ製作のデジタル化や3D化もあって、PJで投影してもあまり違和感が無くなった。それどころか、細かな描写は大画面でないと分からない。
 昔は比較的小型テレビで見ることを前提にしていたので、2000年以前の頃のアニメはフレームアップ画面が多くて、PJで見ると「目が痛い」のである。
 音楽は逆に小型システムやヘッドホン・イヤホンでの再生を優先する関係からか、強烈な40Hzブーストで、大型BHシステムでの再生が難しくなってしまった。


4.家庭に8Kは不要
映像ソースは
VHSは水平解像度240本
LDは約400本
DVDは約500本
ブルーレイ 1080本
4K 2160本
と増加してきた。
 VHSからLDの跳躍は大きかった。VHSの場合、廉価な再生機だとジッターノイズが盛大にでるので、極端に言うと毎日が「ポールのミラクル大作戦」のワープシーンみたいな感じである。
 LDソフトは無圧縮のPCMで記録されていたので、音が良かった。当時、ホームシアターといえば、LDの再生を意味した。なんだかんだとLDソフトを随分買ったが、DVDが普及してきた時点で、全部あげたり、売ったりして処分した。
 DVDはディスクが小さくなったので、プレイヤーの負担が減った。ソフトの保存場所も減った・・・はずだったのだが、本棚がDVDソフトでいっぱいになってしまった。DVDが良かったのは再生機アップスケール(解像度を引き上げる)機能により、プロジェクターが1080pになり、一定程度映像品位を高めることが出来た。
 そこで登場したのが、Blue-rayソフトである。映像も音を驚愕するほど良くなった。もう、パッケージソフトの終着点ではないかと思われるぐらいに良くなった。

 時代は4Kに突入し、解像度はHD「1920×1080」に対して、4K「3840×2160」となった。ソニーの4Kプロジェクターのプレゼンを観たが、確かに、4Kネイティブ再生では映像のヌケが良い。が、150インチで見ても、Blue-rayと4K(MKV圧縮ファイル再生)の差はそれほど大きくない。
 なぜか?Blue-ray映像を4Kにアップスケールして再生している点。35mmフィルムからのマスタリング性能が向上し、伝送における色深度拡張により再現性が高くなった。などの理由が挙げられる。
 4Kは今のところパッケージソフト規格が確定していないので、データ伝送配信方法が検討されている。 まぁ、はっきりって、ネイティブ4Kデータを入手してまで4K再生環境に対する必要性を感じないのである。

Full HD「1920×1080」でおおよそ 200万画素
4K「3840×2160」でおおよそ 800万画素
35mmフィルムでおおよそ 1000万画素
と言われている。

NHK放送技術研究所が8Kを開発・普及を狙っているが、家庭用では不必要である。
劇場用や医療用やモニター用途での需要はあるかもしれないが、漫然と映像を楽しむには過剰な解像度である。

8Kともなれば、 3200万画素
となり、映像編集におけるデータ処理負担はかなりのものとなる。

 N研の言い分は、4Kですでに、台湾・中国に廉価パネルで押されており、8Kで引き離すということらしいのだが、過剰に高いスペックは過剰な値段設定になるのであって、大不況の最中に売れるとは思えない。結局、N研のゴリ押し日本電機メーカーのテレビ製造に引導を渡しかねない。

5.信ずるものは救われた
 以前、横須賀の三上先生宅へ訪問する機会を得た。1930年代のものと思われるゼネラル・エレクトリック製のフロントホーンスピーカーやらなんやら11セットが置いてあった。自称博物館なので、博物館なのだが、実際に音がでるのでこれまた驚いた。
 1970年代に日本の電機メーカーもBHに参入したが、続かなかった。製造が複雑すぎるのもあるが、音道設計に無理があった。長岡式はスロートを長く取り、開口率を低くして、音道長を稼いだ。これにより、低音域の充実が得られ、強力な磁石を積んだ特別限定ユニットの発売もあって、一定程度完成を見た。

 長岡先生が先生たる所以は、思想家長岡鉄男としてである。長岡先生は「全ての戦争は宗教戦争である」と看破し、宗教を否定する言説を記述した。古来、言い習わされてきたことではあるが、その言説を活字として残したことの意義は大きい。今でこそネットがあるが、当時はパソコン通信が辛うじて登場した頃であり、基本的に活字を舐めるように読むしか情報入手の方法が無かった時代である。

 アフガニスタンイラク戦争ブッシュ大統領の言うところの「新十字軍」であり、結果的には米軍撤退となり実質的な敗北となったわけだが、平成のレコンキスタとしてイスラム圏への打撃を与える事が主目的なのであるから、目的は達成されたのだろう。
 日本人民にとっては、とんだとばっちりである。2003年頃から資源価格は上昇し、外為特会を通じた資金供出が増大し、対資源価格で円は暴落すると共に、中東圏の対日感情は悪化した。
 一方、日本国内は宗教団体勢力が選挙における強い影響力を行使して、日本国の弱体化が進んだ。石原慎太郎がデカイ面していられるのは、宗教団体の支持があるからである。自民党においても、創価学会が選挙戦を支援しなければ、すでに雲散霧消(うんさんむしょう)しているだろう。

 大体、死後の世界はないのであるし、神も存在しないのである。実定法による統治が成立しない中世以前に考えられた方便が、人民を支配する「道具」として命脈を引きずっているだけである。有りもしない死後の世界を信ずるものは現世利益を収奪されるだけであり、片方には人民からの収奪により壮麗華美な建物を維持している宗教団体が存在する。 明治維新後、江戸幕府の階級社会支配の尖兵であった寺院は廃仏毀釈運動により、焼き討ちにあった。明治政府は国家神道を用いて、天皇を神と規定し、最終的に国土を焦土と変えた。その神道を掲げる靖国神社に参拝するのが愛国だと勘違いしている人達がいるが、宗教による幻惑が現在進行形で続いている傍証に過ぎない。

 富は一定程度平準化され中産階級が増加してこそ、生産・創作力を逓増させるのであって、富の偏在は社会の不安定化を招き、停滞を産むのである。宗教は思想的不自由を招き、思考の妨げになる。我々は限られた命を生きているのであって、特定の勢力に操られて人生を徒労に終わらせる必要はない。

 ルネッサンスは宗教支配からの開放運動であり、ホッブズリヴァイアサンはイギリス国教に名を借りたローマ教皇体制批判であった。宗教からの隷属状態からの離脱が、現代科学の礎となったのであって、宗教への依存が増していく社会には停滞が待っている。
 近年では科学を用いた詐術が横行しており、「プルトニウムは32g飲んでも安全」と核燃を遂行するために、偽証が流布されており、【科学の宗教化】が懸念されている。
 有用な研究をすると【トリミング作業】を【写真の改ざん】と糾弾され論文撤回を求められる事態も起きている。
 本来科学が持っている人間をアシストし、幸福を逓増させる機能が「毀釈」される事態が起きている。これも一重に人民が検証を怠っているからである。上位下達で鵜呑みにする体質が【科学の宗教化】を許しているのであって、実地で検証しうるものは検証し、討議できるものは極力討議すべきである。

 「宗教と政治の話しをするな」という「ステマ」は愚民化を促進する統治機構側の思惑がある。付け加えて言えば、「科学の宗教化」も併せて人民を危機に晒すのである。
 結局、学会では暗然と結論が誘導され、統治機構側の都合が加味される。戦後、数多の主要な学会は米国の資金援助を受けて設立されている。であるから、米国の意図は外せないのであって、科学の宗教化は起こるべくして起きている。

 BHが廃れてしまったのは、性能が悪いためではない。人民側にBH文化を支えるだけの胆力が無かったからである。新興勢力である中国が再興させるような気もするが、別にこのまま廃れてしまっても良いと思う。消えてなくなってしまおうが、優れた技術は優れているのであって、その威力を余すこと無く、私だけでも享受できれば、それで良いのであり、長岡BHについてだけ言えば、「信ずるもは救われた」のである。