書籍媒体表現の限界を打ち破った「さらば暴政」


○書籍媒体表現の限界を打ち破った「さらば暴政」
 「さらば暴政」でGoogleを検索すると、1つ目がAmazon.comで、どういうわけだか私のブログが2つ目に出てきます。書いた内容は購入前に発売予定である旨、告知しただけに過ぎません。読了後でもありますので、再度「さらば暴政」について触れてみたいと思います。
 私なぞの素人は、書籍出版するということは諸所の制約を受けるという前提があると考えます。表現の制限、訴訟のリスクなどです。しかし、この「さらば暴政」は”暴政”を名前に冠するに相応しい、書籍媒体表現の限界を打ち破る果断な記述で、読むものを圧倒します。広範な知識とオイルマンとして培った重層な経験や人脈を通じて、日本政界の本質を曝露しています。
 まさに書籍ジャーナリズムの「価値」観を覆したとも言えます。「価値観」ではなくて、「価値」観です。
 マンガの世界を参照にして恐縮ですが、昔、士郎正宗氏の攻殻機動隊Vol.1を読んで受けた感覚と似ています。攻殻機動隊では濃密な作画と、欄外にSF設定上の筆者の解説コメントが溢れています。分厚くて膨大な情報量を含む攻殻機動隊が1000円なら、コミックマーケットの68頁同人誌も同じ 1000円です。印刷会社の太陽堂などがオフセット印刷機の制約上、68頁で印刷設定をしているから68頁なんだと思いますが、攻殻機動隊を読んでから同人誌を買うのは止めました。ちなみに、最近はマンガそのものも買ってませんし、マンガは数冊除いてすべて処分しました。
 つまり、「さらば暴政」を読むと、今までのジャーナリズムとは何なのか?と疑問を提起せざるを得ません。「暴政」に対抗するには、著者の頭から血が噴き出ると言わんばかりの筆致をあてがうべきであるわけです。「さらば暴政」はそれを成したわけですが、既存のジャーナリズムで、「さらば暴政」に比する仕事をした人はごく少数と言わざる得ません。あれこれ乱読するよりも、「さらば暴政」を3回も4回も精読した方が良いでしょう。
 
表現規制とは単なる自主規制に過ぎないのではないでしょうか?
 昔、父親が自叙伝スタイルの随筆集を自費出版しました。自費出版なのですが、プロの校正屋さんに校正を頼みました。私が十数本の随筆原稿を入力作業しました。1本だけ社会的に意味がある随筆がありました。
 どういう内容なのかというと、兵庫県養父郡にある父の実家から800m先に忍者小説で知られる山田風太郎氏の生家がありまして、山田風太郎氏が少年時代を回顧した随筆に「庭にある柿を拾いくる朝鮮人がいる」と書いているのです。その朝鮮人というのは日本人と結婚した夫婦の旦那で、田舎を追われ、私の父親の母親、つまり祖母が夫婦共々実家で匿っていたのです。つまり、つげ義春氏のマンガ「李さん一家」みたいな状態だったのです。戦時中の事であり、激しい人種差別の時勢でした。それでも、居場所を追われた人を居候させていたのです。
 その唯一書籍にして出版する意味があると思われる1本を、校正屋が「人種差別的表現にあたる」ということで本に載せることを許可しなかったのです。
 親父も親父である意味ウブというか頭の弱いところが有るので、その意見を受け入れてしまったのです。戦後、実家は所有していた3万円の戦時国債が紙屑になり、その影響からか父親が幼少の時分に両親も死別してます。自叙伝なのに、そこらへんも記述されてないのです。自叙伝が自慰伝に堕して、紙とお金のムダムダ自費出版となってしまいました。
 何が言いたいのかというと、表現の規制というのは外在するのではなくて内在するのではないかということです。「さらば暴政」が歴史的に意味があるのは表現の規制に対するブレークスルーとしての存在であり、書籍とは紙に印刷するに値する重く深い内容の「価値」を含有していなければならないという啓示を我々に与えたということです。

黙殺し続けた「暴政」のタブーに『サンデー毎日』が風穴を開けた
http://www.asyura2.com/09/hihyo10/msg/230.html
暴政の総本山がシカゴ大学だったという驚くべき情報と自民党の原罪
http://asyura2.com/09/senkyo73/msg/773.html
藤原肇氏の新刊『さらば、暴政』が発売へ
http://d.hatena.ne.jp/Takaon/20090715


■定員の100倍殺到、小泉ジュニア超人気ツアー
(読売新聞 - 12月13日 18:27)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=1049215&media_id=20