無尽からデリバティブ取引へ。金融制度の変遷を考える。

1.無尽(むじん)とは
日本の金融の一形態である。複数の個人や法人等が講等の組織に加盟して、一定又は変動した金品を定期又は不定期に講等に対して払い込み、利息の額で競合う競りや抽選によって金品の給付を受ける。金融制度が未成熟だった明治時代においては有効に機能した面もあり、幾つかの無尽講は信用金庫・信用組合と発展していった。
1915 年に旧・無尽業法が制定され、免許制となった。無尽業法は住民や職場などで、業者を関与させずに無尽をする行為を禁止するものではなかった。現代では頼母子講(たのもしこう)と呼ばれ地方によっては行われている。起業する人物に対して地域の人達が集まり、配当率を決定して、一定額ずつ拠出する。

2. 銀行が持つ与信業務と信用創造
「与信」とは金融用語で、“信用を与える”の意味で、何らかの契約や取引を行う際に相手が信用できるか、契約や取引に必要な資力を持ち信頼できるか否かについて、事前に審査することを意味する。
銀行は与信に基づいて貸出を行いマネーサプライ(通貨供給量)を増加させる。このことを信用創造(Credit creation)と言う。

マネーサプライ(現金+預金)と名目GDP(物価×実質GDP)の比をあらわすものには貨幣の所得速度がある。
現実の統計値から貨幣量と物価の相関関係(アーヴィング・フィッシャーの交換方程式)
M*V = P*Q
M はある期間中の任意の時点tにおける流通貨幣(通貨)の総量
V は貨幣の"流通速度" (特定期間内に人々のあいだで受け渡しされる回数:貨幣の回転率のようなもの)売買契約の約定回数
P はある期間中の任意の時点tにおける物価水準(通常は基準年度を1としたデフレータ)
Q は"取引量" (特定期間内に人々のあいだで行われる取引量(quantity)の合計)


3.デリバティブは賭博罪に該当する
 デリバティブ取引は、債券や証券(株式や船荷証券不動産担保証券など)、実物商品や諸権利などの取扱いをおこなう当業者が、実物の将来にわたる価格変動を回避(ヘッジ)するためにおこなう契約の一種であり、原資産の一定%を証拠金として供託することで、一定幅の価格変動リスクを、他の当業者や当業者以外の市場参加者に譲渡する保険(リスクヘッジ)契約の一種である。尚、デリバティブの利用目的には「リスクヘッジ」の他、「スペキュレーション(投機)」「アービトラージ裁定取引)」がある。 
1999年11月29日、日銀の金融法委員会では、デリバティブが持つ賭博罪の構成要件が討議され、違法性が論じられたのである。日本銀行が困惑した点は、デリバティブが以下の刑法185条と186条に該当するというもの。

刑法185〜186条 賭博罪
刑法185条 賭博をした者は、50万円以下の罰金又は科料に処する。ただし一時の娯楽に供する物を賭けたにとどまるときは、この限りでない。
刑法186条 常習として賭博をした者は、3年以下の懲役に処する。
2 賭博場を開帳し、又は博徒を結合して利益を図った者は、1ヶ月以上5年以下の懲役に処する。

取引参加者に相応しい知識・経験を備えている限りにおいて、広義の違法性阻却の観点から正当化されるが、別途デリバティブ取引が賭博罪の構成要件に該当しない旨を規定する立法を行うのが望ましい、との結論だった。
(参考)金融デリバティブ取引と賭博罪に関する論点整理
http://www.flb.gr.jp/jdoc/publication05-j.pdf

 全世界にばらまかれた金融派生債券の総額が六京円-八京円。1998年に破綻したLTCMの場合「運用金額の2.5%相当の救済額」が必要だった。但し、シンセティックCDO(Synthetic Collateralized Bond Obligation / 合成債務担保証券)は複数のCDSを束ねているため解け合い解消出来ず、実損率は高くなるとの試算がある。仮に実損率が2.5%〜5%とすると、1500兆円〜4000兆円の公的資金救済が必要となる。日本の土地・株価バブル崩壊に伴う損失が100兆円〜150兆円で国内総生産の2-3割だったのと比較すると、米国のデリバティブ取引バブル崩壊はスケールがかなり大きいと言うことができる。

4. 貨幣資本が持つ役割は制限されるべき
CDS等の金融商品日計り裁定取引(利鞘取り)で回転させることにより、フィッシャーの交換方程式に基づいて、特定期間内での取引量を増大させることが出来る。本来金融機関は与信に基づいて実体経済をサポートする信用創造を行わねばならない。近年においてはデリバティブ取引により不動産や公債を証券化して売買し、実体経済を直接介在することなく信用創造が行われた。
本源的に貨幣は労働の成果(価値)を細分化し、交換の便宜をはかる機能がある。蓄積された貨幣を資本として市場に投下するに当たり、経営に関与する度合が問われる。デリバティブ取引が発生させた金融恐慌を考慮すれば、貨幣資本が持つ役割を越えて、「貨幣のための貨幣」「資本のための資本」という実体を伴わない金融取引は制限されてしかるべきだろう。