9.11以前の9.11

 かつて、9.11陰謀論が盛んな時期があった。2010年、9.11陰謀論を主題にした『ZERO:9/11の虚構のテーマ』が翻訳上映された。恵比寿ガーデンシネマで上映されるとの事で、初日に観に行き最前列に座った。作品を通じてとても気になったのは、9.11を実行した人達を貶めるような演出が行われていた事である。ニューヨーク世界貿易センターWTC)ビル倒壊そのものにも疑問を投げかけていた。しかし、鉄骨は熱には脆弱なのである。鉄骨製の高層ビルといえども大規模火災が発生すれば倒壊する。
比較対象となっていた2005年スペイン首都マドリード市アスカ地区に立つウィンザービル火災であるが、よく映像をみると建物は鉄筋コンクリート(RC)造である。20時間も燃え、中層階から上部の架構に大規模な崩壊が発生している。コア部や他の柱はRC造りであるが、外周部鉄骨造部分は崩落している。建物階数も32階とWTC(110階)に比べれば低い。
 130トン程度の重量がある大型旅客機が時速800km以上で衝突し、1キロトン爆弾に相当する熱量があるジェットエンジン燃料が燃えた。WTC1及び2号棟倒壊の原因は大型旅客機衝突による広範な構造体損傷とそれに続く火災が原因とされている。RC造と鉄骨造の建物では耐火力に差がある。かなり簡単な話しなのだが、鵜呑みにする人ばかりがいるので、詐術が成立してする。
(参考)マドリードウィンザービル火災調査報告書
http://www.nilim.go.jp/lab/hdg/report/windsor1.pdf
 
 蔓延する9.11陰謀論で誰が得をするのかと言えば、米国そのものである。9.11を陰謀と定義することによって、人々が米帝国主義の罪悪へ思い至る道程を打ち切った。「陰謀」と思考停止へ誘導し、結果的に世界情勢を分析させず思考停止させた弊害はかなり大きい。
 ムハンマド・アタ氏らが自己犠牲を厭わず飛行機を操縦して、対象物に特攻するだけの精神力を維持したのは、米帝国主義の犠牲となった人々へ殉ずる志ざしであり、イスラムの教義による共同体維持に腐心したからである。
9.11に際し米国知識人は声を挙げた。
「われわれは気がつかなければならない。あの事件をもたらした当面の原因が何であれ、最終的な原因は、アメリカの外交政策が過去何十年にもわたっておこなってきたファシズムにあるということを」
 9.11こそ、チャルマーズ・ジョンソン博士が規定する所の、米帝国主義にたいするブローバック(報復)であり、著書「アメリカ帝国への報復」(2000年)で大規模報復行動は予言されていた。

 歴史上9.11以前の9.11といえば、1973年9月11日のチリの首都サンティアゴ・デ・チレで発生した軍事クーデター事件を指し示し、世界で初めて自由選挙によって合法的に選出された社会主義政権を、軍部が武力で覆した事件として認識されている。南アメリカでは今でも9.11といえばチリのクーデターを差し、諸外国では「もうひとつの9.11」と言われている。
カナダ人ジャーナリストであるナオミ・クライン氏によれば1970年代の、チリのアジェンデ政権を政治陰謀で転覆させたピノチェットによるクーデターと独裁、そして経済の新自由主義化(1980年代)を惨事便乗型資本主義の起源だと指摘している。
サルバドール・アジェンデ博士はラテンアメリカの新しいタイプの革命家の一人だった。チエ・ゲバラと同じく医者だった。フィデル・カストロに勝るとも劣らない激しい調子で街頭演説を行なったが、チリにおける社会変革は武装闘争ではなく選挙によってもたらされるべきだという信念をもつ、徹底した民主主義者でもあった。
 1970年、アジェンデを指導者とする社会主義政党の統一戦線である人民連合は自由選挙により政権を獲得し、アジェンデは大統領に就任した。南アメリカにおいて自由選挙で社会主義政党が選ばれた初めての例であった。同政権はそれまで国内外の企業が支配していた経済の主要な部分を国有化する政策を打ち出した。
 しかし、アジェンデ政権の行う社会主義的な政策に富裕層や軍部、さらにドミノ理論による南アメリカ左傾化を警戒するアメリカ合衆国は反発し、アメリカ政府に支援された反政府勢力による暗殺事件などが頻発した。
遂にはアウグスト・ピノチェト将軍によるクーデターが勃発。首都のサンティアゴは瞬く間に制圧され、アジェンデ大統領は大統領警備隊など僅かな兵と共に大統領政庁「ラ・モネーダ」に篭城した。アジェンデは支持者を武装防衛隊へと組織することを拒んだため、彼の側には軍隊はいっさい存在しなかった。彼は大統領辞任やモネダ宮殿からの退去を拒否し、自ら自動小銃を握った。反乱軍によって、次々と放送局が爆破されるなか、アジェンデ大統領は国民への最後の演説放送で
「私の声はいつまでも消えることはないのだ。私は常に諸君と共にある」
との言葉を残し、モネダ宮でキューバフィデル・カストロ首相(当時)から贈られた自動小銃を使い自殺した。
 その日の内に、アウグスト・ピノチェト将軍が政権を握った。軍部や民間のピノチェト支持者は、同政権下の17年間におよそ4000人の人々を拷問にかけ、殺害し「消した」。ピノチェトはアルゼンチンの軍国主義者との共同作戦である「コンドル作戦」に積極的に協力し、アメリカやスペインなどに亡命している反体制の人びとを殺害した。
 後に公文書から明らかになった所によると、米CIAサンティアゴ支局長電報として、
『断固たる方針は、アジェンデをクーデターで倒すことである・・・・この目的のために、可能なかぎりの手段を用いて最大限の圧力をかけなければならない。この作戦は万全の態勢で秘密裏に実施し、アメリカ政府およびアメリカ人の関与を隠し続けることが重要である』
との指示が残されている。

我々は米帝国主義と果敢に闘った人々から学ばねばならない。歴史を読み解かずにして、現下で遂行される企業体が政府を操縦するコーポラティズムの荒波に抗うことは出来ない。


以下、ナオミ・クライン著「ショック・ドクトリン」から引用する。
大統領政庁が炎上するなか、布に覆われたアジェンデの遺体が担架で運び出され、大統領にもっとも近かった人々は路上でうつ伏せにさせられ、ライフル銃を突きつけられていた。
官邸から車で数分のところにある国防省の建物では、最近ワシントンから帰国して国防相に就任したオルランド・レテリエルが、出勤してきたところを玄関で待ち伏せていた戦闘服姿の兵士一二人に取り囲まれ、短機関銃銃口を向けられた。

クーデターに至るまで何年もの年月にわたり、アメリカから送り込まれた指導員(CIA要員もかなりいた)がチリの軍隊に徹底した反共教育を施し、社会主義者とは事実上ソ連のスパイであり、彼らはチリ社会には馴染まない「内なる敵」だという意識を叩き込んだ。だがチリ社会にとって真の意味で内なる敵となったのは、本来守るべきはずの一般大衆に対して銃を向けることも辞さない軍だった。

チリ・スタジアムとナショナル・スタジアムでの虐殺
アジェンデが死亡し、閣僚たちが捕らえられ、表立った大衆の抵抗行動も見られなかったことから、軍事政権の戦闘はその日の午後には終了した。
レテリエルをはじめとする「VIP」の捕虜は、シベリアの強制収容所ピノチェト版とも言うべき、チリ最南端のマゼラン海峡に浮かぶドーソン島へ送られた。
だがチリの新たな軍事政権にとって、アジェンデ政権中枢部を殺害・拘束しただけでは、まだ十分ではなかった。
軍の幹部は自分たちが権力の座にとどまれるかどうかは、チリ国民がインドネシア国民のように真に恐怖の状態にあるかどうかにかかっていることを知っていた。
機密解除されたCIAの報告書によれば、クーデターの直後、およそ一万三五〇〇人の市民が逮捕され、トラックで連行きれ拘束された。
うち数千人はサンティアゴの二つのサッカースタジアム、チリ・スタジアムと巨大なナショナル・スタジアムに連れて行かれ、ナショナル・スタジアムではサッカーの代わりに見せしめの虐殺が行なわれた。
兵士たちは頭巾をかぶった協力者を伴って観客席を回り、協力者が「破壊分子」だと指差した者をロッカールームやガラス張りの特別観覧席に連行し、拷問した。
何百人もが処刑され、やがて多くの遺体が幹線道路脇に放り出され、市内の水路の濁った水に浮かんだ。

「死のキャラバン」
恐怖を首都の外にも波及させるため、ピノチェトは冷酷無比な部下セルヒオ・アレジヤノ・スタルク将軍に命じて、「破壊分子」が拘束されているチリ北部の一連の収容所をヘリコプターで次々に巡回させた。
スタルク率いる殺戮部隊は、拘束者のなかから名の知られた者を、多いときには二六人も選び出しては処刑した。
この流血の四日間はのちに「死のキャラバン」と呼ばれ、ほどなくチリ全土に「抵抗は死を意味する」というメッセージが広まった。

ピノチェトの戦いは一方的であったにもかかわらず、その効果はどんな内戦や対外侵略にも劣らないほどすさまじかった。
行方不明または処刑された人は三二〇〇人以上に上り、少なくとも八万人が拘束され、二〇万人が政治的理由で国外に逃れた。
―引用終わり−