日本外交の転機となった米国によるパナマ侵攻

 ジョージ・H・W・ブッシュ政権は1989年12月20日未明に300機を超える航空機を投入し、空軍、海軍と陸軍からなる5万7384人のアメリカ軍をパナマに侵攻させ、パナマ国内27カ所を同時に攻撃した。首都パナマシティでは、パナマ国防軍本部が最大の攻撃目標となり、周辺に住む人々の家も無差別に爆撃された。
 人口が密集している都市部にも砲撃や空襲は行なわれ、人口密集地区であったサンミゲリト、コロン、パナマビエホ、チョリージョ地区が、ノリエガ一派が隠れているという理由で完全に焼き落とされ、市民に膨大な犠牲者が出た。多くのパナマ人がアメリカ兵に捕らえられ処刑された。国連人権委員会や人権擁護団体による調査では死者2500人から4000人と推定されている。
 米軍はパナマのラジオ局、テレビ局を占拠し、パナマのジャーナリストを逮捕したため侵攻直後の3日間の様子を伝える映像は、ほとんど残されていない。 
 米軍は新たに就任したパナマ政府のメンバーと共に、鎮圧政策に乗り出し、公共の施設、官庁、大学を支配下に置き、反アメリカ的な立場をとる団体のオフィスを破壊し、何千人もの人々を逮捕した。
 この軍事侵攻はパナマの独裁者ノリエガ将軍を麻薬密輸の容疑で逮捕するという名目だったが、実際にはノリエガ排除により米国側のパナマ経由のコカインや資金の動きを守るためだった。後に麻薬の取引量は侵攻時の2倍に増えた。また、ノリエガの支持者やパナマ国防軍の一切を潰し、米国がパナマ運河を自らの支配下に置くことが目的であった。
 かつて、国際赤十字が立ち入りを禁止されたのは、広島・長崎・パナマの三箇所であり、パナマはステルス戦闘機やアパッチ・ヘリ、レーザー誘導ミサイル、レーザー光線兵器の実験場となった。
 米国が主権国家に対して運河や麻薬の権益を得るために、国際法にも国連憲章にも米州機構にも違反する軍事侵略を行ったことにより、日本外務省は激しく動揺した。以後、日本外務省による自主外交は封じられ対米従属化が進んだ。
 1980年代後半に日本の商工会議所はノリエガ将軍と第二パナマ運河計画を進めていたが、パナマ侵攻により計画は頓挫した。
 米国による厳重な報道規制や世論操作にも関わらず、パナマ侵攻は国際世論の反発を招き、1977年のパナマ運河返還条約どおりに、1999年12月31日を以て米国はパナマ運河地帯の主権を放棄して、パナマ共和国に返還した。