残留放射能内部被曝対人影響隠蔽の歴史

 広島型・長崎型原爆を研究開発及び製造を行ったマンハッタン計画の中心的科学者ロバート・オッペンハイマーと、エンリコ・フェルミは研究段階から内部被曝の影響を認識していた。
フェルミヒットラーに原爆製造を思い留まらせるには放射性物質をドイツの小麦畑に蒔くのが効果的だ」
オッペンハイマー「それには骨に沈着して離れにくいストロンチウム90が一番よい。ただし、50万人を殺せる確信ができるまではやめた方がいい」
オッペンハイマーは原爆開発段階でストロンチウム90の対人毒性が高い事を見抜いていた。

 原爆投下を命じたトルーマン大統領は「戦争の長引く苦病を短縮し何百万もの若いアメリカ兵の命を救うために原爆を使用した」と述べており、米国の教育現場でも同様の事が教えられている。
 2014年6月にフランスで行われたノルマンディー上陸作戦記念式典で、西側諸国の首脳陣とロシアのプーチン大統領が列席した。「戦争」をモチーフにしたパフォーマンスで、巨大スクリーンに広島に原爆が投下される映像が流されるやいなや、会場に詰めかけた多くの米軍関係者や観客からは大きな拍手が巻き起こり、オバマ大統領はガムを食べながら一緒に拍手を送っていた。その一方でプーチン大統領は深刻そうな表情をしながら、哀悼の意を表するため胸元で十字を切った。西側諸国は原爆投下対して、戦争を早期集結に結びつけた原爆投下に肯定的である。原爆投下後に起きた直接的・間接的悲劇を黙殺してきたからである。
 原爆投下の最大の理由は人体実験である。広島の投下されたウラン型はプルトニウム型よりも先行して開発は完了していた。ガンバレル型という簡易な構造ゆえに起爆実験も必要としなかった。米国はポツダム宣言における天皇制維持に関する態度を明確にせず、プルトニウム型原爆の製造完了まで終戦を引き伸ばした。1945年8月9日未明のソ連による対日参戦により、日本の敗北は確定的だったにも関わらず、米国は長崎に原爆を投下した。2種類の原爆を投して対人影響を調査するのが目的だったと言われている。2発目の原爆投下は軍部や軍関係者の間では予測されており、小倉の八幡製鉄所では「コールタールを燃やして煙幕を張った」との証言が出ている。八幡製鉄や三菱化成は、煙幕による遮蔽装置を持ち、発令で点火することになっていたのである。また、小倉では射程が1万mあり精度も高い12インチ高射砲が放たれた。ゼロ戦10機もB29迎撃に向かった。一方、長崎の大村飛行場にはB29撃墜能力を有する局地戦闘機紫電改」が駐機していたが、出撃命令は下らなかった。

 広島・長崎に原爆投下後、GHQは原爆の惨状についての報道を統制した。ちなみに、国際赤十字が立ち入りを禁止されたのは広島・長崎の被爆地と、1989年12月の米軍によるパナマ侵攻だけと言われている。パナマ侵攻ではレーザー兵器が使用された。
 原爆投下後の翌9月には被曝の影響を調査するため日米合同調査団が編成された。1947年3月には原爆傷害調査委員会(ABCC)が設立された。放射線による遺伝的影響を探るため、ABCC発足前年の1946年から広島市呉市助産師らと新生児調査の打ち合わせを重ねていた経緯を示す文書が、米国で見つかっている。放射線が遺伝的影響をもたらすことは戦前の動物実験では知られていたが、米国が早い段階から被爆地調査を周到に準備していたことは、原爆投下前後に既に人体影響を予見していた証左の一つと言える。実際にABCCによって奇形児が処分されたとの証言が出ている。
 ABCCは被爆者の追跡調査のみに徹し、全く治療せずデータだけ取った。米国医師は医師免許の都合上、日本での治療行為を行う事が出来ない為という理由が挙げられたが、実際には放射線の医学的生物学的な影響を調査する事が目的の機関であるので、治療行為そのものを想定していない。
 原爆の対日使用の目的は被曝影響の「人体実験」に他ならない。1946年に海軍省トルーマン大統領にABCC設立の必要を訴える文章を送っている。
アメリカにとって極めて重要な、放射線の医学的生物学的な影響を調査するにはまたとない機会です。調査は軍の範囲を超え、戦時だけでなく平時の産業農業など人類全体に関わるものです。」
この文章にトルーマン自身がサインをしている。
 1953年にはABCC生物統計部長ローウェル・ウッドベリーが内部被曝の原因となった「黒い雨」を調査する必要を訴えた報告書を提出している。予備調査が1年続けられたが、衛生状態の悪化が原因とされて、調査は打ち切りとなった。
 ABCCの米国側の主体は、原爆を投下した米国で核開発を担当するエネルギー省である。残留放射能内部被曝対人被害を認めれば、核戦略の前提が崩れてしまう。「人道的兵器」として核兵器保有と行使力を保持したい米国の国家戦略上、内部被曝を認める事が出来ない。
 ABCCは1975年に放射線影響研究所と名前を変え日米共同運営となった。放影研初代理事長は731部隊出身者の重松逸造である。731部隊関係者は研究資料をGHQに提出する代わりに戦犯を免責されたと言われている。重松は国際原子力機関IAEA)のチェルノブイリ報告をまとめた人物でもある。現地には1泊しかしていないにも関わらずチェルノブイリ調査で安全宣言を行い、後の被曝被害の拡大に繋がった。現地では怨嗟の声が上がっている。
 重松はチッソ有機水銀水俣病の因果関係を否定し、救済を十年は遅らせた。水俣病は現地の熊本大学の研究や弁護士達による告発が最終的に有機水銀説を国に認めさせることとなった。水俣病から日本政府は多くの事を学んだ。現地の大学病院が疫学調査で重要な役割を果たす事を認識しており、損害賠償請求訴訟が起きた場合には疫学差によって因果関係が認定される事も認識している。福島医科大学には重松逸造や二代目放影研理事長長瀧重信の弟子筋にあたる山下俊一が副学長として赴任している。 山下俊一は日本におけるチェルノブイリ事故による甲状腺障害研究の第一人者ではあるが、自身の講演では笑顔で放射線障害を抑制できるなどと発言している。山下も本質的には人心から放射能に対する不安を払拭し、国や核産業の思惑を反映させるだけの御用学者の一人と言って良い。
 2013年12月には「がん登録推進法」が成立して、既に施行済である。「がん登録推進法」は、癌登録の業務従事者が当該業務に関して知り得た秘密を漏らしたときは、2年以下の懲役又は100万円以下の罰金に処することとする、と規定している。これにより癌の統計数値が公表されることは無くなったと解釈できる。仮に原発事故の被曝被害者が癌発生の疫学差を法廷で証拠を明示しようにも、原本となる指標が得られない可能性が高い。福島原発事故水俣病の相似形として、膨大な人々が悲劇的な結末を迎える事が想定される。
 現在も、放影研被爆者に対する健康調査は続けている。2012年3月14日に、放影研は低線量の内部被曝影響を研究すると、方針転換を余儀なくされた。