アニメ『純潔のマリア』が語る神からの自由-相反する戦争動員と幸福


もやしもん』の石川雅之原作の『純潔のマリア』がアニメ化された。
シリーズ構成は『今、そこにいる僕』の倉田英之氏。
監督は『ガサラキ』『無限のリヴァイアス』『コードギアス 反逆のルルーシュ』の谷口悟朗
谷口監督は『ガサラキ』では助監督となっているが、実質的には監督だったとされる(要検証)。
現実社会を描写しながら米国批判を展開したアニメは主として『ガサラキ』1998年(高橋良輔監督・谷口悟朗助監督)、『FLAG』2006年(高橋良輔監督)、ブラック・ジャック (OVA)カルテIII 「マリア達の勲章」(出崎統監督)とされている。
無限のリヴァイアス』1999年、トマス・ホッブズ1651年のリヴァイアサンを土台にした小説「蝿の王」を宇宙へ舞台を移した内容である。秩序が失われていくなかで狂気が蔓延していく少年少女の心理を赤裸々に描写した話題作である。
コードギアス』2006/2008年はピカレスク・ロマン作品であるが、ファンタジー色に包みながらも軍事占領下された日本の屈辱的惨状を描くことを通じて、現代日本社会の隠喩とした。
仮にアニメ思想史なるものがあるとすれば、谷口監督は極めて枢要な人物である。その谷口氏が挑んだ新作が『純潔のマリア』(2015年)である。

1.どこが『純潔のマリア』の凄いところなのか。
 『無限のリヴァイアス』は秩序の崩壊や個人の深い心理描写を、アニメ上で行った。基本的にアニメはマスマーケットを狙って製作され、基本的には子供向けである。ゆえに表現への抑制という事が常に働くわけだが、その殻を打ち破り、作家性を強く前面に押し出した。これは黒田洋介氏や倉田英之氏が所属しているスタジオオルフェが大きな役割を担った。
 『純潔のマリア』の凄みは、『コードギアス』が持っていたような大衆受けする要素で装飾しながら、キリスト教が内在する欠点を改めて提示したところにある。アニメ作品としても、早い物語展開、実力派声優陣、表情多彩なキャラクター、丁寧な動画描写、中世舞台戦闘のリアリティ、重厚な風景美術・建物描写など、傑出して素晴らしい。
 『コードギアス』は学園生活を基盤において話が進むが、『純潔のマリア』は「使い魔」や他の魔女とセクシャルジョーク交わしながら話が進む。基本的には魔女マリアと領主の侍従ジョゼフのラブロマンスである。一方では「教会支配を受ける村民」「天の教会」「地上の教会」「戦争に明け暮れる領主」「その傭兵団」とは、戦争に魔術を用いて強制的に介入して戦闘終結をさせるマリアと相容れない点がある。
 天の教会は地上の戦乱には介入しないどころか、戦争を平定しようと魔力介入するマリアを懲罰する。
天使ミカエルが言う所の『システムは維持されなければならない。秩序は保たれなければならない。どんな犠牲を払ってでも。そしてルールは絶対であり、すべての者はそれに頭を垂れよ』という事である。同様に当時の封建的カースト制度は神によって定められ、基本的に『その身分に生まれたのならば、それに従いなさい』という秩序維持を基盤とした。当時の人々は”Great Chain of Being”というものを信じていので、傭兵ガルファの上昇志向自体が咎め立てされる時代背景があった。
地上の教会は戦争動員を行う。村民は強制動員され、王の歓心を買いたい領主は戦争へ深く介入する。カネで雇われた傭兵団は利益最大化を狙う。
 村民は重税と兵役を担い、傭兵団に略奪される対象となる。国王命令で平民からの徴兵が行われ始めた時期でもあり、戦争へ狩り出されて落命する危険もある。マリアは村民を救うためにも東奔西走するが、地上の教会は村民とマリアの絆を断つために計略を行う。
本作は当時の風俗や戦闘を丹念に描写し尽くしている。そして、暗い歴史を水に流す事無く、宗教に対しても手加減をしない。確固として宗教が人に対していかに酷くなれるのかを描ききった。但し、天の教会の意志を体現するミカエルがその地位を揺るがせにされることは無かったし、終盤で自らが笑顔を見せることにより自由意志が内在している事も示した。作品総体として神の概念に対する根底からの否定を行う事はなく、絶対的な神の存在を否定したベルナールは塩にされてしまった。ただ、キリスト教に対して無関心な層に対して、宗教的なる思想の押し付けに対して疑義を抱かせるには充分な内容であり、程よい落とし所を狙った物語構成であったと言える。
魔術(witchcraft)の大半は単なる伝統的な療法や土着の多神教に伝わる儀式である。作中には北欧神話のヴァルキリー、ケルト神話のタラニス、ケルヌンノスが登場する。その存在が希薄化しつつあるケルヌンノスが魔女達の行く末を象徴している。ケルヌンノスは魔女や魔術は人々から忘れられれば消えてしまう未来を予見している。本作は近代の宗教と古代の神話の重複と変遷を描いたのである。

2.ベルナールの神学論争
 なにしろ、『純潔のマリア』のオープニング曲は「Philosophy of Dear World」である。宗教が内在する問題点を描写しつつ、人が自発的意志で判断を行い、人間の実存を中心におく実存主義への脱皮が、司祭ベルナールによって模索される。
 作中において魔女の間でジャンヌ・ダルクの死が語られる。時系列で見ると、本作の時代設定はジャンヌの死(1431年)から100年戦争の終結(1453年)の間となる。
トマス・アクィナス(1274年没)よりは後であり、グーテンベルグ聖書の出版(1455年)や宗教改革(1517年)よりは前となる。
この頃、最も著名なプロテスタントマルティン・ルター(1483-1546年)は生まれていない。
14世紀のイギリスオクスフォード大学教授のウィクリフ、15世紀のプラハ大学教授のフス、15世紀末フィレンツェで改革を行ったサヴォナローラなど宗教改革の前段階でも教会改革者はいたが、カトリック教会により異端の烙印を押され、火刑にされてしまっている。
ヴィッテンベルク大学の神学教授だったマルティン=ルターは贖宥状販売を批判し、ローマ教皇から破門される。後に「キリスト者の自由」、「ドイツ国民のキリスト教貴族に与う」、「教会のバビロン捕囚」の三冊を著し支持者を集める。そして、ルターはラテン語で記されていた聖書をドイツ語に翻訳し、活版印刷技術により、広く人々が聖書を読む機会を与えた。
ルター派プロテスタント(抗議者)と言われるようになった。1555年にアウグスブルクの宗教和議が結ばれ、諸侯にルター派カトリック派かの選択をする権利が与えられた。後にカトリック以外の宗派をプロテスタントと呼ぶようになる。
つまり、『純潔のマリア』の時代の中央もしくは西ヨーロッパのキリスト教信者であるなら、ローマカトリック信者であるという事になる。

マリアは自らの信ずるところにより、魔術を行使して戦闘を停止させ、薬の知識を活かして疫病を抑止して村民を救った。しかし、マリアはベルナール司祭の謀略により、村民との絆をズタズタにされ、収監されてしまう。それでもなお、「人が酷い事にあって死ぬ事を神の摂理として受容しない。どこにでもいるのに言葉しかくれない神なんて、居ないのと同じだわ」と述べた。信念を揺るがせにしないマリアに対して、ベルナールは自発的意志の存在を認め、神の存在証明を推論する。
ベルナールは最初に世界に神がいないと仮定した。トマス・アクィナス(Thomas Aquinas, 1225年頃 - 1274年3月7日)の証明を用いた。しかし、宇宙を創造したとする神がいないと仮定すると、宇宙も存在せず、規則性も保たれず、善悪の比較でもできない。
 次に後期スコラ学を代表する神学者ウィリアム・オッカム(1285- 1347年)の理論を思い出す。人間の理論は厳密に原因と結果が要求されるが神は原因と結果によって束縛されない。よって『人間の理性は神の存在を証明出来ない』。
 ベルナールは「神を疑い、疑い尽くした後で残った物が真の信仰になる。」と述べ、普遍を無いものとし、"Esse est Deus"『私の認識こそが(神の)存在』と結論づける。
 認識と存在は自身によって発生し、自由意志によって自分を救う。人は繁栄や幸福や魂の安寧を求め、神は我々の認識によって存在する。そうなれば、世界は神から人へと委譲され、信仰の調和が保たれる。ここでベルナールはデカルト実存主義へと到達する。
マリアは「まずは一人で立ち上がること。」と返答している。
ベルナールの討議の落としどころは理神論者的立場で、神は人間の自由意志をコントロールしないと規定し、我々が人間に対して責任を負わねばならないと結論づけた。


3.世は宗教戦争真っ盛り
(参考)「米同時テロとイスラム:米は聖地犯す「新十字軍」」
http://www.james1985.org/topics/september_11/usuki02.html
『何よりもビンラーディンにとって許し難かったことは、米軍やイスラエル軍空爆によってイラクボスニアパレスチナレバノンなどの無実のムスリムが無差別に殺されても、国際社会は一部を除いて米軍の殺戮行為を黙認していたことにあった。ムスリムは米軍から見れば虫けら同然だという怒りを「アメリカへのジハード」の中で記している。ビンラーディンにとって今回のニューヨークの無差別殺戮はその復讐ということになる。 』
転載終わり

 本作を通じて考えてもらいたいのは、宗教を通じた戦争動員である。中東では数百万の難民が発生している。この原因は平たく言えば、ユダヤ・キリスト・イスラム宗教戦争である。歴史的経緯を辿れば英米の国家的策謀で中東の戦乱が巻き起こされているが、実際に人民を戦争へ動員するためは宗教が使われている。ジョージ・ブッシュ大統領はイラク戦争を「新十字軍」と表現した。
 日本でも神道連盟をバックボーンした日本会議日本会議に連なる国会議員によって戦争遂行のための法整備がなされている。
 彼らは単に戦争を権力や富の源泉として利用しているだけである。人民を意図的に経済的苦境に追い込んで自発的兵役へと追い込み、憲法を破壊して、かつての王権のように絶対的権力を掌握しようとしている。
 我々は近代から中世へ逆戻りさせようとする勢力と対峙しなくてはならない。本作は誰にでも分かりやすく、古き時代の暴虐性を知る機会を与える素晴らしい作品である。多くの人達に見てもらい、我々が今なにをするべきか、考慮し実践する契機となれば幸いである。