初詣という悪習は止めるべき。

1.初詣のお賽銭は、明治から始まり、戦争資金集めが目的だった。
 未開の部族がおかしな風習に捕らわれているのを見て、「ファンタスティック」と考えるか、「アホですね」と考えるかは、人それぞれだ。
 かつて、国家神道により神道は戦争動員の道具となった。古来からの神道国家神道とは違うという意見もあるが、現在も神社は統治機構と密接な関係にある。
 靖国神社というのは「戦争を祀る」神社であり、遺族年金狙いの神社である。その遺族が減っているので、「また戦争をしないと靖国神社が倒産する」という冗談もある。
 中曽根や小泉や安倍が靖国神社参拝にこだわるのは対米隷属政治を人民に悟られないためである。彼らは国富を米国に供出し、人民の権利をも米国に差し出している。
 靖国神社とは政治的には「対米隷属政治隠蔽神社」なのである。
 まっとうな感覚があれば、中曽根・小泉・安倍こそが「国賊」であり、「人民の敵」であると、数分考えれば分かるのだが、これが分からないのが日本人民の日本人民ゆえなのである。
 初詣のお賽銭は、明治から始まり、戦争資金集めが目的だったそうだ。戦後は違うかもしれないが、昨今の政治的動きを考えると、近からず遠からずといった感じだ。
 靖国神社を含め、神道が戦争動員に再び使われる可能性は否定できない。少なくとも靖国神社は”戦争動員的”役割を戦後も担っている。
 戦前は資源を求めて帝国主義を貫いたが、皮肉なことに戦後の日本は軍事力を行使しなくても、米国に様々に妨害されながらも、資源権益を得ることできることを証明してきた歴史を紡いでる。
 だから、自衛のための戦争以外は行う理由も意義も利点もない。ところが三菱などの大財閥が財閥を護るために戦争動員をかけてきている。
 戦争となれば、人権を失い、言論も身体の自由も失う。誰が戦争へ誘引かけているかといえば、米国の戦争屋であり、日本側の財閥群である。


2.他にすることあるだろう?
 近所の神社に散歩がてら行って、お参りして賽銭投げて帰ってくる程度なら、それほどデメリットはないかもしれない。明治神宮のような遠方へ、遠路はるばるエネルギーやお金を浪費して、めちゃくちゃ混んでいる中、ずらーっと並んで、最後はビニールシートで囲われた巨大なところへ、お金を文字通り放り投げるという行事をこなすのをみると、ほとほと呆れ果てる。
 お金を投げること自体が、何か悪い事をしているように思えるし、実際ビニールシートの巨大お賽銭箱に入らないで、地面には小銭が散乱している。バカバカしいにもほどがある。
 何を祈るかといえば、商売繁盛が受験合格か安産といったところだろう。寒い中、出歩く事は身体的負担を考えるとマイナスでしかない。商売繁盛なら、支出を減らし収入を増やす算段をするべきであり、休日でもできる事をやるべきである。
 神社にお金を投げ込む行為はエネルギーと資源とお金も無駄使いであり、商売繁盛には繋がらない。統計とれば分かると思うが、【神頼み】している人の方が商売失敗している比率が高いと思われる。

 大晦日になると500mは離れているかと思われる神社から深夜になっても太鼓の音が「ドンガラドンガラ」聞こえてくる。単に安眠妨害でしかない。


3.車まで清めちゃう神社
 神社には交通安全のため車を清めるサービスがあり、確か7000円ぐらいだったと思う。ところが、神社が何をどうしようが、交通安全とは無関係である。
 事故の確率を減らすには「運転しない事」が最善手段である。全く運転しないのが無理なら、不要の運転を減らすことであり、まずは神社へ車でくる時点で、事故が起きる確率を増やしている。
 屁理屈話ではない。特に雪が降ったら運転しないようにしなくてはならない。
 生活道路では速度を落とすとか、運転する時間帯を考えるとか、夜中に外出しないとか様々な事故発生確率低減行為は存在する。そういった、実際に事故を減らす努力が必要なのであって、神社に行ってお金を払うことは無駄である。その分、仕事しないで、外出しないほうが安全だ。
 八百万の神だとか言うが、昔の社会には自動車はない。福島第一原発起工式にも神社の宮司だかが来て、お祈りのようなことをしているビデオが残されているが、その結末はどうだったか?
 宗教全般に言えるが、宗教自体が非合理的であり、第三者から見れば、宗教者の現世利益極大化のために、有りもしない空想の世界を作り上げて人民から収奪している悪徳者集団である。
 カール・マルクスの言うとおり人民にとって「宗教はアヘン」であり、合理的判断をとらせない精神作用をもたらす麻薬である。そして統治機構と結びつき都合の良い人民支配を続けるための道具でもある。


4.まずは初詣を止めるべきだ。
 1月1日には、神社にいって、1月2日には天皇の挨拶を見に皇居まで行く悪癖からまず止めなければ、日本民族の未来はない。
 天皇というのは愛新覚羅溥儀のような存在であり、「米国植民地日本」の象徴なのである。天皇裕仁マッカーサーGHQと握った結果が沖縄や日本の米軍軍事基地問題を生み、米国による対日絶対支配が続いている最大の理由である。
 息子には責任はないだろうが、天皇というシステム自体がもはや対米従属構造を維持するため、人民を欺くための道具となっているのである。