思想家長岡鉄男が残したもの〜イームズ夫妻の影響を考えてみる〜

Takaon2007-10-29

○はじめに
 私にとって、長岡鉄男氏はまずは思想家であって、次に自作スピーカーの伝導師でした。長岡先生はホームシアター専用設計の方舟も含めて、私の憧れでした。
 長岡鉄男氏を思想家と規定する理由は、実際に私が長岡先生から思想的影響を強く受けているからに他なりません。なぜ、長岡先生の影響を強く受けたかというと、長岡先生の文章は明瞭で解りやすかったからです。歴史に名を残す大哲学者の御歴々の御著書は難しくて私には理解できませんでしたが、長岡先生の文章は理解出来たと、ただそれだけの事なのです。
 長岡先生もどれほど深い智見を持って文章を書いていたのかは解りません。コント作家出身ですから、
「こんな事も言うことができるかな?」
くらいの気持ちで執筆されていたのかもしれません。
 実は今の私がその心境です。私は皆と違うこと言ってみて喜んでいるだけなのですが、意外や意外に真相真理を突いているかな?と一人で悦に入っています(^-^;

○「観音力」長岡鉄男自身による自伝
 長岡鉄男先生についてはスピーカー設計術や追悼本を含めかなりの冊数が発刊されています。貝山知弘氏らオーディオ関係者との対談なども数多くあります。更には長岡氏自身による自伝本「観音力」があります。「観音力」には若かりし頃から、晩年に至るまでの職歴・オーディオ歴が書いてあり、通読すれば長岡氏の遍歴がおおよそ解るようになっています。
 追悼本の一冊に、「観音力アンソロジー」が音楽の友社から出版されました。長岡氏が本に発表した文章をまとめた本です。「観音力アンソロジー」を読むと長岡氏の思想がほぼ俯瞰できます。

○音による覚醒。長岡氏は太宰治の「トカトントン」を引き合いに出して自らの原点を語りました。
太宰治 トカトントン
http://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/2285_15077.html
という作品があります。敗戦の日に自殺しようとする男が大工のトカトントンという音を聞いて我に帰るという短編小説です。
 「観音力アンソロジー」に具体的な事が書かれた文章が掲載されています。長岡先生の親父は小学校の校長先生で家には「本当の歴史」を記した本があったそうです。それらを読んだ長岡先生は学校で教える歴史がウソっぱちだということに気づいてしまい、あまり勉強しなかったそうで、家にある本を読んだりしていたそうです。
 長岡先生は天皇を崇拝体制によって遂行された戦時体制が、戦後にガラっと変った事、そして、音を追求する趣味に目覚めたことについてトカトントンを引き合いに出されて述べたのです。

○長岡教の神通力は生きているのでしょうか?
 かつて、長岡先生設計のD-55を作り、日々鳴らして親しんでいました。部屋が狭いせいで、2mに満たない至近距離聞いていました。今にして思うとフルレンジ特有の刺々しい音でしたし、低音は部屋の外へ抜けていってしまって薄い感じでしたが、バックロードホーン特有のトランジェントの良い「速い低音」は魅力でした。自作スピーカーにこだわるのは音だけなく、コストパフォーマンスの良さもあります。
1990年代後半になると長岡先生の記事が掲載されている雑誌も買うこともなくなり、突然2000年に亡くなられたことを知りました。やがて、2004年ころホームシアーターを構想し、モア(D-150)をYahoo!オークションで落札し、そこから長岡教への回帰が始まりました。
 自作スピーカーへの興味が復活した折りには、長岡先生が亡くなられてから時を経ており、もはや信者も消えてしまい、「我こそは数少ない長岡教徒の生き残りなり〜」とマッドマックスに出てくるティナターナーかはたまた北斗の拳ケンシロウに自身を重ね合わせて見たりもしました(^-^;。が、さにあらず、長岡教は世に広く伝搬し、今でも現役及び隠れ信徒さんが数多くのいるようです。
 しかも、長岡鉄男先生の影響は受けたという人は、私が思ったよりも多いようです。一方、実際に長岡スピーカーを運用している人は減っているようです。現在でもスピーカーユニットメーカーのFostexはFE208ES-Rなどの新作を発売しておりまして、スピーカーユニットの進化は続いています。
 長岡先生は富士の裾野で行われた自衛隊演習の収録ディスクを推奨するなど、「音」そのものを聞く事にも傾注しました。当時は機関車や花火や大砲の「音」を聞くというのは奇異な世界でしたが、DVD-VideoのDTS録音ディスクが出てきて、今や戦争映画を見るときにはダイナミックレンジが大きなバックロードホーンの威力が如何かく発揮されることになりました。時代が長岡スピーカーに追いついたのです。
また、「こんなスピーカーみたことない長岡鉄男のオリジナルスピーカー設計術[基礎知識編] [図面集編Ⅰ] [図面集編Ⅱ]Special Edition」3冊が再編集されて発売になります。
http://www.diyloudspeakers.jp/

○仮説「長岡先生はイームズ夫妻を手本にした」
 イスのデザイナーで有名なチャールズ・イームズですが、妻のレイと共に、建築や映像、美術の世界に大きな業績を残しました。第二次大戦中に合板成形の会社を立ち上げて義足などを作っていたそうです。一説には軍に買い上げられて成功したという話しもあれば、失敗して事業に行き詰まったという説もあります。1949年には鉄骨剥き出しでモダンな設計?のイームズ邸を建設しています。1960年代にはIBMとの蜜月関係を築き、パビリオンの設計演出を行なっています。この頃すでに多スクリーンによるホームシアターを実現しております。1960年代当時のIBMは1980年代のAppleの要に「イメージによる夢を売る」会社だったのです(笑)。
 私は長岡先生とイームズに共通点が多いのに気づきました。イームズは合板成形技術を駆使したイスを多作しましたが、長岡先生は合板を「いも継ぎ」で組み上げたスピーカーを多作しまいた。イームズ邸は設計から建築段階まで詳細に渡る雑誌解説がされました。長岡先生も方舟建築については一部始終を収録した著著を出版しています。イームズが設計演出したIBMパビリオンのホームシアター的な試みは長岡先生が目指したホームシアター像を誘因したと思われます。
 長岡先生はスピーカーメーカーのBose社を意識した多スピーカーユニットによる音場型を作っています。一方、Boseは長岡先生の共鳴管スピーカーからキャノン型スーパーウーハーを作ったという風聞があります。(要検証)
 しかし、長岡先生が自らのライフモデルとして手本にしたのはイームズ夫妻その人だと、私は想定しています。戦後の日本はアメリカを手本に復興を遂げてきました。長岡先生もアメリカに強い影響を受けています。バックロードホーンの理論も1930年代のアメリカの技術です。長岡先生はD-1からD-9まではアメリカ版を下敷きにしたと記しています。その後、独自の設計理論を実践していくことなります。
ですから、長岡先生がイームズ夫妻を知らぬはずもなく、合板がもたらした工作革命に乗って、アメリカではイスの設計、日本では自作スピーカー設計と実践が行われたのではないでしょうか?

○まとめ 
長岡鉄男氏のすごいところは自らの理論を提唱するに留まらず実践を伴った所です。初期のころこそは自らスピーカー製作を行なっておりましたが、昭和50年代には、自らのスピーカー理論を実証していくための人的動員を、文章創作能力や人柄で成しえたというところです。
そして、レイ・ブラッドベリ原作の華氏451(911じゃないよ)が描きだした、壁いっぱいに映像を映し出すテレビ装置を実現するために、専用の家まで建てました。
スピーカーもバックロードホーンから共鳴管タイプをリファレンスに切り替えて可能性を探りつづけました。膨大なレコード・CD・LD・DVDのコレクションを行い、海外の高音質レーベールを紹介・解説を行い、最晩年にはフランス語の辞書を引いていたそうです。ちなみにご子息は翻訳家です。
長岡先生は著名になったのは40代後半と遅咲き人生でしたが、50代以後に多大な著述を残し、死の間際まで精力的に仕事を成されました。
資源枯渇による成長の限界に突き当たった感ある昨今ですが、私も長岡先生のように生きて行きたいと思います。